ブログ|善型枠

ブログ

書いてみて、初めて自分が分かった話

最近、ブログを書くことが趣味になりつつある。

といっても、最初からブログを書きたかったわけではない。

きっかけは、社長が会社のホームページを作ったことだった。

ホームページはできた。

見た目もちゃんとしている。

ただ、一つ問題があった。

ブログを更新する人がいなかった。

作ったはいいものの、誰も書かない。

このままだと、立派なホームページの中に、ずっと同じ記事だけが置かれることになる。

それはそれで少し寂しい。

自分も文章を書くことに少し興味があったので、

「じゃあ、自分がやってみようかな」

くらいの気持ちで始めた。

本当に、そのくらいだった。

文章を書く人になろうと思ったわけでもない。

誰かに何かを教えようと思ったわけでもない。

現場であったことを書いたり、子どものことを書いたり、妻との会話を書いたり。

その日に思ったことを、忘れないうちに残しておく。

最初は、ただ会社のホームページを更新するために書いていた。

でも、続けているうちに、少し不思議なことに気づいた。

ブログを書いていると、自分のことが分かる。

正確に言えば、

書く前には分かっていなかった自分の気持ちが、書き終わった頃に分かることがある。

これは少し変な話である。

自分の気持ちなのだから、自分が一番分かっているはずなのに。

全然そんなことはなかった。

例えば、仕事で嫌なことがあった日。

その時はただ、

「今日は疲れたな」

と思っている。

腹が立ったのか。

悔しかったのか。

悲しかったのか。

自分でもよく分からない。

とにかく疲れた。

それで終わる。

でも夜になって、ブログを書こうとする。

今日こういうことがあった。

あの人がこう言った。

自分はこう返した。

その時はこう思った。

一個ずつ思い出しながら書いていると、

「あ、自分は腹が立っていたんじゃなくて、悔しかったんだな」

と気づくことがある。

逆もある。

大変だった現場の話を書いていたはずなのに、最後まで書くと、

「自分、結構この仕事好きなんだな」

と思ったりする。

現場にいる時には、そんなことは考えていない。

暑い。

重い。

早く帰りたい。

だいたいこの三つである。

それなのに、家に帰って文章にすると少し違って見える。

今日、起きたこと。嬉しかったこと。嫌だったこと。

誰かに助けてもらったこと。

その場では通り過ぎていたものが、文章にすると急に残る。

たぶん自分は、毎日の出来事をちゃんと感じる前に、次へ進んでいたんだと思う。

朝起きる。

仕事に行く。

仕事が終わる。

家に帰る。

子どもと過ごす。

飯を食べる。

風呂に入る。

寝る。

そして、また朝になる。

毎日は思っているより速い。

何かを感じても、整理する前に次のことが始まる。

いちいち、

「ここで本日の自分の感情を整理します」

なんて時間はない。

そんなことをしていたら、たぶん子どもに何かを投げられる。

だから、うれしかったことも、腹が立ったことも、そのまま流してきた。

ブログを書く時間だけが、その流れていったものを拾い直す時間になった。

あの時、なぜあんなに腹が立ったんだろう。

なぜ、あの一言だけ覚えているんだろう。

なぜ、今さら昔のことを思い出したんだろう。

文章にしようとすると、理由を考える。

すると、今まで自分でも気づいていなかったものが出てくる。

自分は、思っていたより人に認めてもらいたいらしい。

思っていたより家族のことを気にしている。

思っていたより仕事に誇りを持っている。

そして思っていたより、昔のことを覚えている。

昨日の晩飯は忘れるのに、十年前に誰かに言われた一言は覚えていたりする。

人間の記憶の保存基準は、よく分からない。

でも、最近になって一つ思い出したことがある。

「内省」というものだ。

自分の考えや行動を振り返って、自分自身を見つめること。

自分で自分に手紙を書いたりもする。

実はこれ、子どもの頃によくやらされていた。

当時は、何とも思っていなかった。

言われたからやる。

書けと言われたから書く。

たぶん、それくらいだった。

真面目に自分と向き合っていたかと言われれば、かなり怪しい。

早く終わらせたかったと思う。

それっぽいことを書いておけばいい。

そんな感じだった。

正直、何のためにやっているのかもよく分かっていなかった。

それが今になって、

自分から同じようなことをやっている。

誰にも言われていない。

提出する相手もいない。

先生もいない。

それなのに夜になると、その日あったことを振り返って、

「あの時、自分は何を思っていたんだろう」

と考えている。

子どもの頃、あれだけ適当にやっていた内省を、

何十年か経って、今度は自分からやっている。

もしかすると、あの頃やらされていたことが、どこかに残っていたのかもしれない。

当時は何も感じていなかった。

役に立っているとも思わなかった。

でも、ずっと後になってから意味が分かることもある。

そう考えると、昔の出来事の見え方まで少し変わってくる。

嫌だったこと。

失敗したこと。

恥ずかしかったこと。

「あの時は最悪だった」

で終わっていた出来事を、今の自分が文章にする。

すると、

あれがあったから今こう考えているのかもしれない。

あの人に言われたことが、まだ自分の中に残っているんだな。

そんなことに気づく。

過去そのものは変わらない。

起きたことも変わらない。

でも、今の自分から見た意味は変わる。

これは、ブログを書き始めるまであまり考えたことがなかった。

最初は、会社のホームページを更新するためだった。

誰もブログを書く人がいないし、少しでも役に立つなら

「じゃあ自分がやってみよう」

と始めただけだった。

それが気づけば、自分の昔のことを思い出し、自分の気持ちを考え、自分でも知らなかった自分を見つける時間になっていた。

書いてみないと分からなかった。

自分が何を大事にしているのか。

何に腹が立つのか。

何がうれしいのか。

なぜ仕事を続けているのか。

家族のことをどう思っているのか。

頭の中にあるだけの時は、全部ぼんやりしていた。

文章にして外に出して、初めて形が見えた。

たぶん、自分を知るというのは、

「自分はこういう人間です」

と一言で説明できるようになることではない。

昨日はこう思った。

今日は少し違う。

昔は嫌いだったことが、今は大事になっている。

そういう自分の変化を、一つずつ見つけていくことなのだと思う。

ブログを書き始める前より、自分のことが分かるようになった。

でも同時に、前より分からなくなった気もする。

書けば書くほど、

「自分、こんなこと考えていたのか」

というものが出てくる。

まだ知らない自分が、結構いる。

それも悪くない。

これからも仕事をして、家に帰って、子どもと過ごす。

腹が立つ日もある。

うれしい日もある。

何も起きない日もある。

そして夜になったら、また少し書く。

あの日の自分が何を感じていたのか。

何を大切にしていたのか。

あとになって読み返して、

「ああ、この時はこんなことを考えていたのか」

と思う日が来るのだろう。

子どもの頃は、意味も分からずやらされていた内省。

気づけば今は、自分からやっている。

何も悪いことはしてないのに。

つよし

型枠の拾い出しは大変な話

図面を見ると、一本の線がある。

ただの線に見える。

細い。

まっすぐ。

何も言わない。

ものすごく涼しい顔をしている。

「自分、ただの線ですけど」

みたいな顔をしている。

いや、分かっている。

見た目はたしかに線である。

でも、型枠大工から見ると、その一本の線はただの線ではない。

かなり面倒くさい線である。

できれば近づきたくない線である。

見た目は細いのに、中身が太い。

情報量が多い。

図面の一本の線には、いろんなものが隠れている。

高さはいくつなのか。

どこで止まるのか。

どこで折れるのか。

開口はあるのか。

段差はあるのか。

欠き込みはあるのか。

加工場でどう作るのか。

現場でどう組むのか。

コンクリートを打ったあと、どう解体するのか。

材料を無駄にしない形になっているのか。

一本の線にしては、情報量が多すぎる。

図面の線は、表では静かである。

でも裏側では、

「ここ、ちゃんと考えないと現場で詰まりますよ」

「このままだと加工場で嫌な顔されますよ」

「解体の時に無言になりますよ」

「材料、まあまあ無駄になりますよ」

という情報を抱えている。

言え。

先に言え。

黙っていないで、図面の方からちゃんと言ってほしい。

「ここ注意」

「ここ危険」

そのくらい書いていてほしい。

でも図面は書いてくれない。

図面は基本的に無口である。

線と数字だけが書いてある。

ここでいう拾い出しは、材料を何枚使うかを数える話ではない。

型枠の形を図面から読み取って、加工場で作れる形に起こす作業である。

職人が加工しやすいように考える。

現場で組みやすいように考える。

最後に解体屋さんがバラしやすいようにも考える。

さらに、材料を無駄にしないようにも考える。

やることが多い。

考えることが多すぎて、途中で図面に話しかけたくなる。

「お前、どうしたい?」

もちろん返事はない。

図面は黙っているので、こちらが考えるしかない。

一本の線を木材で形にする。

最近は、材料を無駄にしない使い方を考えるのも、仕事のうちだと思っている。

昔は、正直そこまで深く考えていなかったかもしれない。

形が合えばいい。

現場で組めればいい。

そう思っていた部分もある。

でも今は材料も高い。

ベニヤ一枚でも、桟木一本でも、無駄にすればちゃんとコストで返ってくる

だから加工帳を書く時も、材料の取り方を考える。

この形で取れば早い。

このまま書けば楽だ。

多少材料は無駄になるけど、加工は簡単になる。

そういう悪い考えが、頭の中を一瞬よぎることがある。

本当に一瞬である。

たぶん。

そして、その悪い自分に少し負けそうになった時、親父(社長)の顔が浮かぶ。

材料を無駄にする形で加工帳を書こうとした瞬間、なぜか親父の顔が出てくる。

別に後ろに立っているわけではない。

カメラで見られているわけでもない。

図面の中に小さく印刷されているわけでもない。

でも、頭の中にはいる。

かなり鮮明にいる。

しかも無言である。

この無言が一番怖い。

ただ見る。

静かに見る。

そして、その顔が言っている。

「それ、本当にその取り方でいいのか」

怖い。

かなり怖い。

図面より怖い。

図面は黙っているだけだが、親父の顔は黙っているのにしゃべっている。

高等技術である。

その瞬間、思いとどまる。

もう一回図面を見る。

もう一回取り方を考える。

少し面倒でも、材料が無駄になりにくい形を探す。

加工しやすさだけで逃げない。

現場のことも、材料のことも、コストのことも考える。

材料は勝手に湧いてこない。

ベニヤも桟木も、畑から生えてくるわけではない。

朝になったら現場の隅に自然発生しているわけでもない。

それを忘れて、楽な加工帳を書こうとすると、頭の中の親父がまた静かにこちらを見る。

やめてほしい。

図面から型枠を拾っている時、身体はあまり動いていない。

椅子に座っている。

パソコンを見ている。

ペンを持っている。

外から見ると、あまり働いていないように見えるかもしれない。

でも頭の中では、かなり働いている。

もう加工してる

もう現場で型枠を組んでいる

もうコンクリートを打っている。

もう解体している。

まだ図面の前にいるのに、頭の中では工程が進みすぎている。

気が早いにもほどがある。

でも、そこまで考えないと見えないことがある。

図面では簡単そうな形でも、現場では全然簡単ではないことがある。

一枚で作ればきれいに見える。

でも実際には重すぎる。

大きすぎる。

持ちにくい。

入らない

逆に細かく分ければ扱いやすいかもしれない。

でも今度は加工の手間が増える。

組む時に合わせる場所も増える。

隙間も気になる。

解体の時には楽かもしれないが、材料の取り方が悪くなることもある。

どれか一つだけを見れば簡単である。

作りやすさだけ。

組みやすさだけ。

解体しやすさだけ。

材料の無駄だけ。

一個だけなら、まだ考えやすい。

でも実際は、全部が同時に来る。

本当に難しい。

拾い出しに絶対の正解はない。

同じ図面を見ても、人によって形の起こし方が変わる。

ここで分ける人もいれば、一枚で作る人もいる。

ここは現場合わせにする人もいる。

どれがいいかは、現場によって変わる。

職人によっても変わる。

解体のことまで考えると、また変わる。

つまり、拾い出しはただの作業ではない。

判断の連続である。

しかも、あとから答え合わせが来るタイプの判断である。

型枠大工は、現場で身体を使う仕事だと思われがちである。

もちろん、それは間違いない。

暑い中で材料を持つ。

型枠を組む。

締める。

通りを見る。

身体はかなり使う。

でも、その前に頭も使っている。

図面の一本の線を見て、その裏にある情報を読み取る。

その線が、現場でどう形になるのかを考える。

その形が、誰かを困らせないかを考える。

それが拾い出しだと思う。

一本の線は簡単そうに見える。

でも頭の中では、ずっと現場が動いている。

図面一枚で、何回も現場を往復している。

そりゃ疲れる。

ただ、うまく拾えた時は気持ちいい。

でも、何も起きない。

それが一番いい。

良い拾い出しは、目立たない。

問題が起きないからである。

拾い出しをやるようになってから、現場で型枠を見る目も少し変わった。

きれいに納まっている型枠を見ると、組んだ人だけではなく、その前の仕事まで想像する。

ここは考えたんだろうな。

ここは加工しやすくしたんだろうな。

ここは現場で楽になるようにしたんだろうな。

逆に、ものすごく組みにくい型枠を見ると、

「拾った人、現場来てほしいな」

と思うこともある。

怒りたいわけではない。

一回だけ一緒に組みたい。

たぶん次から変わる。

型枠の拾い出しは地味な仕事だ。

現場で型枠が立った時ほど分かりやすくはない。

でも、その前に誰かが線の裏側を読んでいる。

一本の線の中にある複雑な情報を読み取って、仕事できる形に変えている。

加工を考える。

現場を考える。

解体を考える。

材料を考える。

そして最後に、親父の顔色を考える。

図面には載っていない。

でも、材料を無駄にしようとした時だけは、線や数字よりはっきり浮かんでくる。

つよし

北谷MS、慰労会!

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型枠のボスが慰労会を開いてくれたので、みんなで参加してきました。

監督さん、解体屋さん、設備屋さん。

約一年間、同じ現場で顔を合わせてきた人たちが久しぶりに勢ぞろいした。

現場では、それぞれ自分の仕事に追われているので、ゆっくり話すことは意外と少ない。

それが現場を離れて酒が入ると、みんな普通に笑っている。

一年も一緒にいたのに、

「この人、こんなにしゃべる人だったんだ」

と思うこともある。

大変な現場だったはずなのに、終わってしまえば不思議と笑い話になる。

結局、明け方まで楽しく飲みました。

一年間、一緒に戦ってきた皆さん、本当にお疲れさまでした。

またどこかの現場で、一緒に仕事ができる日を楽しみにしています。

つよし

ハーモニーランドで、カッコつけるのをやめた話

男なら分かってくれると思うが、男には突然、意味もなくカッコつけてしまう瞬間がある。

沖縄から福岡空港へ向かう飛行機の中で、CAさんが飲み物を配っていた。

「お飲み物はいかがですか?」

自分はコーラが好きなので、普通にコーラを頼もうと思った。

コーラください。

それだけでいい。

なのに、CAさんが目の前まで来た瞬間、なぜか言った。

「あ、いらないです」

自分でも意味が分からなかった。

飲みたい。

普通に飲みたい。

前の席の人が飲んでいるコーラを、さっきから少し見ていた。

それなのに断った。

CAさんが去ったあと、隣にいた妻が言った。

「何をかっこつけてるの? コーラ好きじゃん」

一瞬でバレた。

自分はすぐに答えた。

「いや、かっこつけてないよ」

本当は、かっこつけていた。

何なら、かなり純度の高いかっこつけだった。

飛行機でコーラを頼むことの何が恥ずかしいのか、自分でも分からない。

大人の男ならコーヒーとか水とかを頼むべきだと、一瞬どこかで思ったのかもしれない。

でもコーヒーすら頼んでいない。

ただ喉が渇いた男が、コーラを我慢しただけである。

何も得していない。

妻は笑っていた。

でも「かっこつけてない」と言ってしまった以上、もう後には引けない。

つまり自分は、

「CAさんの前だからクールに振る舞った男」

ではなく、

「もともとこういうクールな男」

という設定で生きていかなければならなくなった。

コーラ一杯を断っただけで、人格設定が一つ増えた。

そして翌日、大分県にあるハーモニーランドへ行ってきた。

サンリオのテーマパークである。

子どもが好きなキャラクターに実際に会える。

親として、これ以上分かりやすく正しい休日はない。

問題は一つだけだった。

自分はハーモニーランドについて、ほとんど何も知らなかった。

サンリオの何かがある。

大分にある。

キティちゃんがいる。

以上。

情報量としては、道端の看板とほぼ同じである。

それでも出発前の自分には、妙な自信があった。

「まあ、普通の遊園地だろ」

遊園地というものは、だいたい分かる。

乗り物がある。

キャラクターがいる。

これまでの人生経験から、そこまでは読めている。

だから完全に油断していた。

到着するまでは。

駐車場に車を止め、入口へ向かって歩いていると、すでに周囲の空気がおかしかった。

子どもたちが仕上がっている。

キティちゃんのカチューシャ。

シナモんロールのバッグ。

全身ピンク。

中には、全身をキティちゃんグッズで完全武装している大人までいる。

対して自分は、普通のTシャツだった。

まずここで気づいた。

服装を間違えたかもしれない。

入園すると、さらに世界が変わった。

とにかく、かわいい。

入り口からもう、かわいい。

建物もかわいい。

乗り物もかわいい。

音楽もかわいい。

歩いている人まで、なんとなくかわいく見えてくる。

その中を、自分も歩く。

型枠大工の男が。

完全に異物である。

自分だけが、かわいくない。

圧倒的に。

家族写真を撮ったら、ハーモニーランドの世界観に一人だけ作業員が紛れ込んだみたいな感じだと思う。

普段はベニヤと桟木に囲まれている人間が、突然キティちゃんの世界に放り込まれている。

色が違いすぎる。

現場なら、

「そこセパ入ってないよ」

とか言っている。

今日は、

「シナモンいた!」

である。

落差がすごい。

しかも、自分にはもう一つ問題があった。

妻である。

正確には、妻の視線である。

昨日、自分は飛行機の中で言ってしまった。

「かっこつけてないよ」

つまり今日ここで、

「うわ、キティちゃんだ!」

などと全力ではしゃいでしまったら、昨日のコーラの件まで全部さかのぼって有罪になる。

妻から、

「やっぱり昨日かっこつけてたじゃん」

と言われる。

それだけは避けたい。

なぜ避けたいのかは分からない。

別に裁判でもない。

妻もたぶん、もう忘れている。

でも自分だけは覚えている。

だから園内に入って最初のうちは、妙にクールだった。

娘が、

「キティちゃん!」

と指を差す。

自分も見る。

普通にテンションは上がっている。

でも妻がいる。

「おー」

このくらいにしておく。

娘が、

「シナモン!」

と言う。

かわいい。

普通にかわいい。

でも妻がいる。

「へえ」

何の「へえ」なのか。

完全に楽しんでいるのに、楽しんでいない人の演技をしていた。

ハーモニーランドに来てまで、昨日断ったコーラの辻褄を合わせている。

園内を歩いていると、いろいろなキャラクターがいる。

娘はそのたびに反応する。

自分も最初は、

「おー、かわいいね」

と余裕を持っていた。

だが問題が起きた。

知らないキャラクターが増えてきた。

娘が何かを指差した。

「あれ誰?」

知らん。

こっちはキティちゃん一本でここまで来ている。

キティちゃんという大黒柱だけでサンリオを理解したつもりになっている。

その後も娘は容赦なく指を差してくる。

「あれは?」

「キティちゃんの友達だよ」

「あれは?」

「キティちゃんの親戚」

「あれは?」

「たぶん、かなり仲いい知り合い」

もう名前を答えることを諦めて、人間関係で答え始めた。

最終的には、園内にいる知らないキャラクター全員をキティちゃんの知り合いということにした。

子どもは当然テンションが高い。

「パパ、シナモン!」

と言って走っていく。

自分も後ろから、

「どこ?」

と言いながら追いかける。

ここでも最初は、まだ妻を意識していた。

走っているけど、はしゃいでいるわけではない。

父親として追いかけているだけ。

そういう顔をしていた。

誰も聞いていないのに、自分の中でずっと弁明している。

ところが少しずつ、その設定が崩れていく。

数時間前まで、

「シナモンって犬なの?」

くらいの知識だった男が、

「あ、あっちにもシナモンいるよ」

と誰より先に見つけ始める。

環境への適応が早すぎる。

現場で新しい図面を渡された時より理解が早い。

最初は完全に、

「子どもが喜ぶなら」

という父親の立場だった。

自分は付き添い。

主役は子ども。

今日は家族サービス。

そして何より、自分はクールな男。

そういう設定だった。

ところが一時間くらいすると、おかしくなってくる。

キャラクターの名前を覚え始める。

「あれ誰?」

と聞いていた自分が、

「あれポムポムプリンじゃない?」

と言い始める。

成長が早い。

型枠の専門用語を覚えた時より早い。

さらに怖いのが、写真である。

最初は子どもだけ撮る。

「そこ立って」

「こっち向いて」

「はい、笑って」

普通の父親である。

そのうち、

「せっかくだから一緒に撮るか」

となる。

ここで一瞬、妻の顔を見る。

危ない。

昨日の自分がいる。

クールな男は、キティちゃんの横でピースなどしない。

そう思った。

数秒後。

ピースしていた。

しかも、ちゃんと笑っていた。

何の抵抗もない。

朝の自分に見せたい。

お前、数時間後にはキティちゃんの横でピースしてるぞ。

たぶん信じない。

「いや、自分そういうのいいから」

とか言うと思う。

黙れ。

お前は昨日コーラすら頼めなかった。

そして昼を過ぎた頃には、完全に忘れていた。

妻の視線も。

昨日のコーラも。

クールな男という設定も。

全部忘れた。

キャラクターを見つければ、

「あ、いた!」

と普通に言う。

娘より先に手を振る。

乗り物にも乗る。

普通に楽しむ。

写真も撮る。

ショップに入れば、

「これかわいいな」

と自分から言う。

もう誰も止められない。

妻が横にいることすら、かっこつける材料ではなくなっていた。

人間、楽しさが一定量を超えると設定を維持できないらしい。

朝、

「子どもが喜べばそれでいい」

みたいな顔をしていた男が、

帰る頃には普通に一番楽しんでいた。

ハーモニーランドを出る時、子どもに聞いた。

「楽しかった?」

「楽しかった!」

よかった。

そう思いながら駐車場へ向かった。

そこでふと、自分のスマホの写真を見た。

キティちゃん。

ポムポムプリン。

子ども。

キティちゃん。

自分。

何かのキャラクター。

自分。

自分。

思ったより自分が写っている。

付き添いの写真量ではない。

しかも後半になるほど、自分の笑顔が仕上がっている。

最後の方なんて、娘より自分の方が楽しそうに写っていた。

つよし

階段ができるようになって、完全に調子に乗っていた頃の話

型枠大工の世界では、よく言われる。

「階段ができるようになったら一人前」

自分もずっと信じていた。

だから初めて一人で階段を納めた時は、かなり嬉しかった。

いや、嬉しかったというより、完成した。

自分が。

階段ではない。

自分が完成したと思っていた。

出来上がった階段を下から見上げながら、

「ここまで来たか」

と思った。

誰も表彰していない。

親方も横で普通に仕事をしている。

でも自分の中では、すでにエンドロールが流れていた。

型枠大工人生、完。

今考えると恐ろしい。

型枠大工の技量がレベル10まであるとしたら、当時の自分はたぶんレベル6くらいだった。

でも本人は完全にレベル10の顔をしていた。

ここが一番恥ずかしい。

レベル6なのは別にいい。

問題は、レベル6がレベル10の歩き方をしていたことである。

階段ができるようになった直後から、急に現場の見え方が変わった。

壁を見る。

「まあ、壁ね」

柱を見る。

「はいはい、柱ね」

梁を見る。

「梁もね」

何をそんなに知っているのか。

昨日まで普通に苦戦していた男である。

でも一回階段をやっただけで、急に全ての型枠を一度クリアしたゲームみたいに見始める。

新人が作業しているのを見ても、

「そこ、ちょっと違うんだよな」

みたいな顔をする。

言わない。

ただ、顔だけは親方である。

顔面だけレベル10。

たまに自分が作った階段の前を通ると、必ずチラッと見る。

まだある。

当たり前である。

コンクリートでできている。

一晩で消えるわけがない。

でも見る。

そして心の中で、

「まあ、俺がやったんだけどね」

と思う。

通るたびに見る。

朝見る。

昼見る。

帰りにも見る。

一日に三回エンドロールを流していた。

しかも階段をやった経験があるというだけで、会話にも少し余裕が出てくる。

誰かが、

「今度の現場、階段あるらしいよ」

と言う。

すると自分の中のレベル10が出てくる。

「へえ、階段ね」

へえ、ではない。

お前、一回やっただけである。

一回。

それなのに言い方だけは、年間三百本くらい階段をやってきた人のそれだった。

たぶん当時の自分に、

「階段どうやってやるの?」

と聞いたら、ちょっと間を置いて答えていたと思う。

すぐ答えると軽く見られるからである。

一回しかやっていないのに。

場合によっては、

「まあ、階段は現場によるからね」

とか言っていたかもしれない。

一回しかやっていないのに。

この「一回しかやっていないのに」が、当時の自分には全く見えていなかった。

階段ができた。

だから一人前。

一人前。

つまり、もう上の方。

この計算だった。

実際には、階段より難しい納まりは死ぬほどあるし、ここから先に行くには、技術だけではどうにもならない。

監督や他業者とのやり取り、工程、材料、人員の配置、図面を読み取る力、現場全体を見る力、未来を予測する力。

ここから急に、腕だけではどうにもならなくなる。

でも、その頃の自分に、

「お前まだレベル6だぞ」

と言っても、たぶん聞かなかった。

「いや、階段できるんで」

と言っていたと思う。

強い。

何に対しても階段で返してくる。

「まだ知らないこと多いぞ」

「でも階段できます」

「もっと経験必要だぞ」

「階段できます」

「それ一回しかやってないだろ」

「でも、できました」

完全に階段を免許証みたいに使っている。

今なら分かる。

あの頃の自分は、一人前になったのではない。

一人前になったと思い込めるくらいには、仕事を覚えただけだった。

そして、その中途半端に仕事を覚えた時期が、一番危ない。

何も知らない新人は、ちゃんと分からない顔をしている。

本当にうまい人は、分からないことがまだあるのを知っている。

一番厄介なのは、その真ん中で、

「だいたい分かった」

と思っている人間である。

まさに自分だった。

レベル6。

顔だけレベル10。

歩き方レベル10。

発言だけレベル10。

実力だけ、ちゃんと6。

ただ、今は少し違う。

昔みたいに、

「もうだいたい分かった」

とは思わなくなった。

むしろ、分かれば分かるほど、分からないことが増えてきた。

あの頃は階段ができただけでレベル10の顔をしていたのに、今は少し仕事ができるようになった分だけ、

「あ、まだ全然上あるな」

と思う。

それでも、レベル10にはなりたい。

技術も。

段取りも。

人の動かし方も。

材料の読みも。

現場全体を見る力も。

全部ひっくるめて、

「あの人に任せておけば大丈夫」

と思われる型枠大工になりたい。

たぶんレベル10になった本人は、

「俺、レベル10です」

なんて言わないんだと思う。

それを言った瞬間、また昔の自分が出てくる。

顔だけレベル10の、あいつが。

だから今は、なるべく鼻を低くしてやっている。

レベル6だった頃よりは、少し進んだと思う。

まだまだ覚えることはある。

ただ最近、ちょっとだけ現場がうまく回った日に、

「今の自分、レベル8くらいあるんじゃないか」

と思う時がある。

危ない。

調子に乗りやすいあいつが、まだ中にいる。

つよし

お前と同じだなって言われた話

今日は、久しぶりに会った人がいる。

とある、建設会社の部長さんだ。

昔から型枠の仕事でお世話になっていて、自分の夫婦の考え方や、子育ての考え方にも大きな影響を受けた人である。

昔から、その人の話は不思議だった。

「なるほど」と思うこともあれば、

「そんな考え方があるのか」

と思うこともあった。

たぶん今の自分は、その人から教わったことを、気づかないうちに子育てにも夫婦生活にも持ち込んでいる。

少し話をしたあと、その人が聞いてきた。

「子育ては順調か?」

順調。

子どもは元気である。

よく笑う。

よく食べる。

でも、言うことは聞かない。

「いやぁ、全然言うこと聞いてくれないですよ」

そう答えた。

すると、その人は笑いながら言った。

「お前と同じだな。」

その瞬間、自分は何も言えなかった。

確かにそうだった。

自分は親の言うことを素直に聞く子だったか。

全然そんなことはない。

「危ないからやめなさい。」

と言われても、五分後にはまた同じことをしていた。

「そこ登るな。」

と言われたら、なぜか登りたくなる。

「走るな。」

と言われたら、急に全力で走りたくなる。

親は止めようとしている。

一回怒られたくらいでは止まらない。

二回怒られても止まらない。

三回目くらいになると、

「次はバレないようにやろう。」

と学習する。

学ぶ方向がおかしい。

親はたぶん、

「そこじゃない。」

と思っていたはずである。

それなのに、自分は親になった途端、

「何で言うこと聞かないんだ。」

と思っていた。

ずいぶん都合がいい。

人間というのは、本当に忘れる生き物である。

自分が子どもだった頃のことを。

親にどれだけ迷惑をかけたかを。

怒られたことを。

心配をかけたことを。

全部きれいに忘れて、

今度は親の立場から子どもを見ている。

あの一言を聞いた時、自分の子どもを見ているつもりが、昔の自分を見ていたことに気づいた。

言うことを聞かない。

落ち着かない。

興味を持ったら一直線。

たしかに似ている。

似ているから腹が立つのか。

似ているから心配なのか。

そこはまだよく分からない。

でも、一つだけ思った。

親も、こんな気持ちだったのかもしれない。

何度言っても聞かない。

それでも毎日言う。

怒って、笑って、また怒って。

それを何年も続ける。

親というのは、思っていたより気の長い仕事である。

子どもが言うことを聞かないのではない。

子どもは子どもなりに、一生懸命生きているだけなのかもしれない。

昔の自分がそうだったように。

そう考えると、少しだけ気持ちが楽になった。

もちろん、危ないことは止める。

ダメなことはダメと言う。

それは親の仕事だ。

でも、全部思い通りにしようとしなくてもいいのかもしれない。

自分だって、思い通りには育たなかった。

それでも何とか大人になった。

あの日の自分に、

「ちゃんと言うことを聞け。」

と言っても、たぶん聞かない。

今の子どもも、きっと同じなのだろう。

「お前と同じだな。」

たった一言だった。

でも、その一言で、自分は子どもを見る目が少し変わった。

子どもを育てているつもりだった。

でも実際は、自分が育てられているのかもしれない。

つよし

NANAというグループの話

最初にHANAを知ったのは、妻がキッカケだった。

「これ見てみて」

そんな感じで勧められた。

画面には、七人の女の子がいた。

一人ひとり雰囲気が違って、いわゆる同じ方向に揃えた感じではなかった。

自分は見ながら、

「個性的なグループだね」

と言った。

たぶん、そのあとに、

「自分はそんなに興味ないかな」

みたいなことも言った。

今思うと、少し冷たかった。

妻は別に怒るでもなく、

「あ、そう」

くらいで終わった。

その会話も、それで終わった。

ただ、自分の中では終わっていなかった。

一人でいる時に、また見た。

最初は本当に軽い気持ちだった。

一曲だけ。

少しだけ。

そんなつもりだった。

でも、気づくと他の動画も見ていた。

別の曲も見た。

インタビューも見た。

オーディションの映像も見た。

かなり見ていた。

妻に興味ないと言った人間の行動ではない。

ただ、ここで問題がある。

一度「興味ない」と言ってしまうと、急に好きになったことを申告しづらい。

夫婦の間には、たまにこういう小さな意地がある。

別に誰も勝負していないのに、負けたくない。

何に負けるのかは、よく分からない。

そんなことをしているうちに、自分はHANAがどういうグループなのかを知った。

No No Girls。

何度も「NO」と言われてきた人たちのためのオーディション。

見た目。

声。

年齢。

才能。

いろいろな理由で、誰かに否定されたり、自分で自分を否定してきたりした人たちが集まった。

そこから七人が選ばれた。

そのことを知ってから、見え方が変わった。

最初はただ、

個性的な七人だな、

と思っていた。

でも、その個性は最初から自信満々で持っていたものではなかったのかもしれない。

むしろ、否定されてきた部分を、どうにか抱えたままここまで来たのかもしれない。

そう思うと、歌っている姿が少し違って見えた。

人は、成功した後だけを見ると強そうに見える。

舞台に立っている人。

賞を取る人。

歓声を浴びる人。

そこだけを見ると、最初から自信があったように見える。

でも実際は、そんなことはないのだと思う。

誰かに否定される。

自信をなくす。

もうやめようかなと思う。

それでも続ける。

また否定される。

それでも続ける。

たぶん、その繰り返しの先に、あの舞台があった。

そう考えると、急に他人事ではなくなった。

自分も型枠大工をしていて、うまくいかないことはある。

何年やっていてもある。

自信がなくなる日もある。

このやり方でいいのかと思う日もある。

何か新しいことを始めようとしても、

今さら遅いんじゃないか。

向いていないんじゃないか。

そんなことを考える。

誰かに「NO」と言われなくても、自分で勝手に言っている。

大人になると、こっちの方が多い気がする。

自分で自分に出す不合格通知は、かなり厄介である。

しかも、出す側も受け取る側も自分なので、反論しづらい。

HANAを見ているうちに、少しずつそんなことまで考えるようになった。

そして、レコード大賞の最優秀新人賞を取った。

その瞬間を見た時、自分でも驚くくらい感動した。

最初に妻から勧められた時は、

「個性的だね」

で終わらせたグループだった。

そんな自分が、少し泣いていたかもしれない。

人生は分からない。

妻のおすすめも、あまり雑に扱わない方がいい。

そこから始まった感動だった。

もちろん、賞を取ったこと自体もすごい。

でも、自分が一番心を動かされたのは、

「NO」と言われてきた人たちが、それで終わらなかったことだった。

否定されたことが、最後の答えではなかった。

その時に認められなかったことが、その人の価値ではなかった。

場所が変われば見つけてもらえることがある。

出会う人が変われば、欠点だと思っていたものが個性になることもある。

そして、自分で嫌いだった部分が、いつか誰かに必要とされることもある。

そんなことを、あの七人が見せてくれたような気がした。

たぶん、自分が感動したのは、彼女たちの過去を知っているからではない。

自分にも少しだけ、似たような気持ちがあるからだと思う。

誰かに認めてもらいたい。

今の自分で終わりたくない。

まだ何かできるんじゃないかと思いたい。

そういう気持ちは、大人になっても案外なくならない。

むしろ、歳を取るほど隠すのが上手くなるだけなのかもしれない。

だから、HANAが大きな舞台で名前を呼ばれた時、

よかったな、

と思った。

そして、そのあと少しだけ、

自分もまだ決めつけなくていいのかもしれない、

と思った。

何が向いているか。

何ができるか。

どこまで行けるか。

今の時点で全部決めなくていい。

「NO」を言われたところが、人生の終点とは限らない。

そんな当たり前のことを、久しぶりに信じたくなった。

妻に最初に勧められた時、もう少しちゃんと見ておけばよかった。

とは思う。

でも、たぶんあの時の自分には、まだ分からなかったのだろう。

何度も見て、

背景を知って、

少しずつ好きになって、

最後に感動した。

もしこの記事を読んでいる人で、まだHANAを知らない人がいたら、一度見てみてほしい。

最初は、自分と同じように、

「個性的なグループだな」

くらいにしか思わないかもしれない。

でも、その七人がどこから来たのか。

どういう思いで集まったのか。

何を乗り越えて、あの場所まで来たのか。

そこまで知ると、見え方は少し変わると思う。

少なくとも、自分は変わった。

妻に「そんなに興味ないかな」と言った人間が、今こうして記事まで書いている。

妻にはまだ、

「最初興味ないって言ったけど、実はかなり見てる」

とは言っていない。

ただ、たぶんバレている。

そのうち言おうと思う。

つよし

家に帰る前に、少しだけ車にいる話

仕事が終わって、家の駐車場に着いているのに、すぐに車から降りられない日がある。

エンジンを切る。

急に静かになる。

すると、今日の疲れが助手席に座る。

乗せた覚えはない。

「今日も大変でしたね」みたいな顔をしているが、お前が一番大変にしている。

降りろ。

スマホを見るわけでもない。音楽を聴くわけでもない。誰かに連絡を返すわけでもない。ただ、座っている。

家に帰りたくないわけではない。

家族に会いたくないわけでもない。

むしろ、早く帰った方がいいことは分かっている。子どもが待っているかもしれないし、妻も一日中、こちらの知らない疲れを抱えて過ごしていたはずで、自分だけが今日の疲れを代表みたいな顔で持ち込んでいいわけではない。

分かっているのに、少しだけ車にいる。

あの数分は、いったい何なのだろう。

休憩なのか。

反省なのか。

現実逃避なのか。

それとも、父親になる前の読み込み時間なのか。

たぶん最後である。

画面には出ていないが、頭の中ではこう表示されている。

「父親モードを起動しています。しばらくお待ちください」

しかも、たまに止まる。

87パーセントくらいで止まる。

原因はだいたい、今日の仕事である。

あの時の言い方、少しきつかったかな。

明日の仕事、どういう段取りでいこうかな。

支払い、大丈夫かな。

求人、誰か来ないかな。

冷蔵庫に何かあるかな。

家の中に入れば、自分は父親になる。夫になる。それは嫌なことではない。むしろ、大事なことだと思っている。

でも、現場の顔のまま玄関を開けると、たまに事故る。

疲れているだけなのに、機嫌が悪いように見える。

考えごとをしているだけなのに、怒っているように見える。

黙っているだけなのに、何か深刻なことを抱えている人に見える。

家族は悪くない。

こちらの顔が、まだ現場の顔のままになっているだけである。

鏡を見る。

顔がまだ現場である。

もう完全に現場。

顔に「安全第一」と書いてある。

だから、少しだけ車にいる。

そして、なるべく爽やかスマイルを意識して玄関を開ける準備をする。

そんなことを毎回考えているわけではない。ただぼんやりしているだけの日もある。今日も疲れたな、と思っているだけの日もある。帰ったら風呂に入りたいな、と思っているだけの日もある。何なら、降りるのが面倒くさいだけの日もある。

それを全部まとめて、切り替えと言えば少し聞こえがいい。

車を停めて、エンジンを切って、鍵を持って、荷物を持って、玄関まで歩く。たったそれだけのことに、少し気持ちの準備がいる日がある。

家には家の時間がある。

妻には妻の一日がある。

子どもには子どもの機嫌がある。

自分が帰ったからといって、玄関で回復魔法が発動するわけではない。

「おかえり」と同時に体力が全回復して、明日の段取りまで自動で整うなら助かるが、現実はそう甘くない。

むしろ家に入った瞬間、子どもが全力で何かを要求してくる可能性がある。

抱っこ。遊ぼう。これ見て。あれ取って。

謎の石。

謎の紙。

だからこそ、こちらも全力で対応する為に少しだけ準備する。

家が散らかっていても、それを最初の一言にしない。

妻に労いの言葉をかける。

子どもの謎の報告を、なるべく真剣に聞く。

自分の機嫌くらいは、自分でとって入る。

そんなことを、毎回きれいにできているわけではない。

できていない日の方が多いかもしれない。

ただ、『そうありたい』とは思っている。

思い返してみれば、若い頃、駐車場でいつまでも車から降りてこないおじさん達をよく見かけた。

あの頃は、何をしているのだろうと思っていた。

今なら少し分かる。

家に帰る前に、少しだけ車にいる。

たぶんそれは、自分なりに生活を大事にしようとしている証拠なのだと思う。大げさに言えばそうなるし、大げさに言わなければ、ただ疲れたおじさんが車から降りるまでに時間がかかっているだけである。

よし、と心の中で言う。

別に何もよくない。

でも、こういう時の「よし」は内容ではない。

勢いである。

玄関までの道のりを歩く。

さっきまで頭の中にいた支払いも、段取りも、反省も、不安も、全部消えたわけではない。消えたわけではないが、家に持ち込む形は少し変わった気がする。

助手席の疲れは、勝手に家までついてきている。

本当にしつこい。

でも、ただいまと言って、おかえりが返ってきた。

それだけで、さっきまで車から降りられなかった自分が、笑ってしまう。

けれど、今日一日を終わらせるには、これくらいで十分なのだと思う。

つよし

北谷町12F MS、R階打設

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*約一年間いた現場が終わりました*

一年間通った現場が終わりました。

12階建てのマンション。

最初は何もありませんでした。

まだ地面しかなくて、本当にここに建物が建つのかと思うような場所でした。

そこに型枠を組み、一階ができ、二階ができ、気づけば十二階まで上がっていました。

毎朝通った道。

毎日見ていたクレーン。

同じ職人さんたち。

監督さん。

休憩場所。

一年もいると、それが当たり前になります。

だから終わる日というのは、少し不思議です。

昨日まで普通に仕事をしていた場所なのに、今日はもう「次の現場」になります。

型枠大工は、建物が完成しても、そこで暮らすことはありません。

次の現場へ行きます。

だから、自分たちが一番長くいた場所なのに、一番最初にいなくなることもあります。

少し寂しい仕事です。

でも、完成した建物を見ると、

「あそこ、自分たちが型枠を組んだな」

と思います。

誰にも分からなくても、自分たちは分かります。

あの壁も。

あの梁も。

あのスラブも。

コンクリートの中には、自分たちが一年積み重ねてきた仕事があります。

一年という時間は長いようで、終わるとあっという間でした。

大変な日もありました。

暑い日もありました。

雨の日もありました。

図面とにらめっこした日もありました。

みんなで笑った日もありました。

その全部が、一つの建物になりました。

次
からは、また新しい現場です。

何もない場所から、また始まります。

少し寂しい気持ちもありますが、それが型枠大工の仕事です。

一年間、事故なく終えられたこと。

一緒に仕事をした皆さんに感謝です。

またどこかの現場で会いましょう。

つよし

男性には譲らないが、女性には100%譲っている話

運転している時、自分の中にとても小さい男が出てくることがある。

本当に小さい。

豆粒くらいである。

普段はどこに隠れているのか分からないが、ハンドルを握った瞬間、急に出てくる。

たとえば、細い道で車同士が向かい合った時。

こちらが少し下がれば通れる。

相手が少し寄れば通れる。

どちらかが譲れば、何の問題もない。

本来なら、それだけの話である。

しかし、相手が男だと、自分の中の小さい男がでてきて、言う。

「いや、こっちが先だったよな」

出た。

本当にしょうもない。

別に急いでいるわけでもない。

後ろに救急車がいるわけでもない。

今日中に地球を救わなければいけないわけでもない。

ただ、相手が男というだけで、なぜか少し譲りたくなくなる。

相手の顔が少し強そうだと、なおさらである。

こちらも強そうな顔を作る。

「いや、自分も別に引きませんけど」という顔だけはする。

その顔をしながら、心の中では思っている。

早く譲れよ。

自分である。

自分が譲ればいい。

分かっている。

分かっているのに、なぜか男同士になると、細い道が急に決闘場になる

でも、相手が女性だと話が変わる。

すぐ譲る。

ものすごく譲る。

「どうぞどうぞ」という顔をする。

こちらから下がる。

こちらから寄る。

場合によっては少し笑顔までつける。

何なら、心の中で誘導員になっている。

はい、どうぞ。

ゆっくりで大丈夫です。

そのまま、そのまま。

はい、いけます。

お気をつけて。

急に人間ができている。

同じ道である。

同じ車である。

同じ自分である。

なのに相手が違うだけで、器の大きさが変わる。

これはかなり問題である。

自分は優しい人間なのではないかもしれない。

ただ、相手によって器の蛇口を開けたり閉めたりしているだけである。

しかも自分は、型枠大工である。

現場では、譲り合いがないと仕事にならない。

鳶さんがいる。

電気屋さんがいる。

鉄筋屋さんがいる。

設備屋さんがいる。

監督さんがいる。

生コン車が入る日もある。

ポンプ屋さんが動く日もある。

自分たちだけで現場を使っているわけではない。

狭い場所で、誰が先にやるか。

どこに材料を置くか。

どのタイミングで作業に入るか。

次の人が仕事しやすいように、どこを空けておくか。

現場では、そういうことを普通に考える。

型枠だけが偉いわけではない。

自分たちが組んだ後に、次の仕事がある。

自分たちが好き放題すれば、次の人が困る。

自分たちが無理に通れば、誰かの作業を止めることもある。

だから現場では、意外と譲っている。

「先どうぞ」

「ここ空けます」

「こっちから回ります」

「そこ使うなら、材料寄せます」

わりと普通に言っている。

なのに道路では、なぜか男相手に譲れない時がある。

どういうことなのか。

現場ではあれだけ「ご安全に」と言っている人間が、細い道では安全第一を助手席から降ろしている。

戻ってこい。

安全第一。

お前は現場だけの言葉ではない。

道路にも必要である。

型枠の仕事は、正直な仕事である。

通りが悪ければ、コンクリートもその形になる。

締めが甘ければ、打設の時に怖い。

段取りが悪ければ、次の人が困る。

だから現場では、先を読む。

ここで無理したら後で詰まる。

ここを空けておいた方が後が楽。

今は自分が下がった方が早い。

相手を先にやらした方が全体が進む。

そんなことを毎日考えている。

つまり自分は、本当は知っているはずなのだ。

譲った方が早いことを。

下がった方が全体が進むことを。

意地で突っ張っても、結局あとで面倒になることを。

型枠では分かっている。

現場では分かっている。

なのに、運転中の自分だけが分かっていない。

たぶんハンドルを握ると、脳みそのどこかが少し現場未経験になる。

新人である。

道路に関してだけ新人である。

しかも態度の悪い新人である。

「いや、自分、下がらないっす」

下がれ。

早く下がれ。

現場なら親方に怒られるやつである。

本当に器が大きい人は、普通に譲る。

何も考えずに譲る。

それだけで終わる。

一方、自分は違う。

まず考える。

どっちが先だったか。

相手は譲る気があるのか。

ここで自分が下がったら負けなのか。

いや、そもそも何の勝負なのか。

そうこうしている間に、時間だけが過ぎる。

周りから見れば、ただの交通の詰まりである。

本人の中だけで、なぜか誇りの問題になっている。

誇りというほど立派なものではない。

ただの意地である。

昔は、こういうものを男らしさだと思っていた時期もあったかもしれない。

譲らない。

引かない。

なめられない。

でも今になると、思う。

譲れない男より、譲れる男の方がカッコいい。

下がれる人の方が、よほど余裕がある。

型枠でもそうである。

無理に自分の場所だけ取ろうとする人より、周りを見て動ける人の方が仕事がしやすい。

「ここ通りますか」

「これ邪魔なら寄せます」

「先やってください」

こういう一言を言える人がいると、現場は変に詰まらない。

仕事がうまい人は、作業そのものだけではなく、周りとの取り合いもうまい。

型枠も、道路も、結局は取り合いである。

幅が限られている。

時間が限られている。

相手がいる。

無理に突っ込むと詰まる。

同じである。

同じなのに、道路では急にそれを忘れる。

かなり反省が必要である。

これを格好いい話として書くことはできない。

ただの小ささの告白である。

けれど、型枠大工として毎日現場で譲り合っているなら、道路でも同じようにできるはずである。

できるはず。

たぶん。

いや、できるようにしたい。

そう思いながら、次に細い道で男の車と向かい合った時は、自分から下がろうと思う。

道路で勝っても、何も得しない。

時間が早くなるわけでもない。

型枠の精度が上がるわけでもない。

ただ、知らない男と数秒間、無言でにらみ合った実績だけが残る。

そんなものは、いらない。

だから次からは譲る。

相手が男でも、こちらから下がる。

笑顔で「どうぞ」までは、まだ無理かもしれない。

そこは段階を踏ませてほしい。

まずは無表情で下がる。

慣れてきたら、軽く会釈もする。

最終的には、女性に譲る時と同じくらい自然に譲れる男になりたい。

ただ、正直に言う。

次に細い道で向かい合った相手が、ものすごく偉そうな男だったら、自信はない。

女性なら百メートルでも下がれる。

男なら一メートルで迷う。

型枠の通りは直せても、この性格の通りだけは、まだ少し悪い。

つよし