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昔、憧れていた先輩がいた。
喧嘩も強い。
スポーツも何をやらせてもうまい。
とにかく何でもできる人だった。
走れば速い。
球技をやらせればすぐうまい。
身体の使い方に無駄がない。
転びそうになっても、転んでいないみたいな顔で戻ってくる。
こちらが転びそうになった時は、だいたい事件になる。
運動神経というものがあるとすれば、あの先輩は運動神経にかなり好かれていたのだと思う。
その先輩が、幼少期に体操をやっていたという話を聞いたことがある。
その時は、へえ、そうなんだ、くらいに思っていた。
ただ、心のどこかには残っていた。
何でもできる人。
身体の使い方がうまい人。
小さい頃に体操をやっていた人。
この三つが、頭の中でなんとなくつながっていた。
それから割と最近、武井壮さんが、自分の身体を完璧に動かしているつもりでも、実際には思った通りに動かせていない、というような話をしているのを聞いた。
そして、体操をやっている人たちは、自分の身体をかなり正確に扱えるという話も。
たとえば、目を閉じて腕を水平に広げてみる。
自分ではまっすぐ横に出しているつもりでも、写真を撮って見てみると、全然水平じゃないらしい。
これを聞いた時、自分は少し怖くなった。
自分の腕なのに。
毎日ついているのに。
ずっと一緒に暮らしているのに。
本人が「水平です」と言っている腕が、実際には全然水平ではない。
これはもう、身体側の軽い裏切りである。
しかも厄介なのは、自分ではできているつもりだということだ。
できていないなら、できていない自覚くらいあってほしい。
こちらは信じている。
腕を信じている。
しかし腕は、こちらの信頼に応えていない可能性がある。
そう考えると、体操をやっている人たちが、自分の身体をかなり正確に扱えるという話にも納得がいった。
あの人たちは、腕が本当に水平かどうかを、感覚だけでかなり分かっているのだと思う。
自分の身体を、自分の思った場所に持っていける。
これがどれだけすごいことなのか、武井壮さんの話を聞いてようやく分かった。
その瞬間、自分の中で急に合点がいった。
そういうことだったのか、と。
あの先輩が何をやらせてもうまかったのは、ただ生まれつきではなく、小さい頃に自分の身体の使い方を覚えていたからなのかもしれない。
走る。
跳ぶ。
回る。
支える。
ぶら下がる。
バランスを取る。
転んでも身体を守る。
そういう身体の基本操作を、幼少期に体操で覚えていた。
だから後からどんなスポーツをやっても、入り口でつまずきにくかったのではないか。
自分はかなりピンときた。
体操、すごいな。
これは子どもの頃にやっておくと、かなりのアドバンテージになるのではないか。
そう思った。
その時の自分は、完全に発見者の顔をしていた。
おそらく、ニュートンがりんごを見た時と同じ顔をしていた。
自分の中では、かなりの発見だった。
小さい頃に体操をやる。
自分の身体の使い方を覚える。
その後に好きなスポーツをやる。
有利になる。
完璧である。
育児の攻略法を見つけたと思った。
これはすごい。
自分だけが気づいてしまった。
そう思っていた。
そして最近、その話を妻にした。
「小さい頃に体操やってたらさ、自分の身体の動かし方を覚えるから、あとから何のスポーツやっても有利になると思うんだよね」
自分としては、かなり良い話をしたつもりだった。
声の感じとしては、研究発表である。
家庭内学会である。
本来ならここで妻が、
「え、すごい。そんな考え方があったんだ」
という顔をする予定だった。
もしくは、
「なるほど、あなたはそこまで考えていたのね」
という顔でもよかった。
そこまで贅沢は言わない。
せめて少しだけ感心してほしかった。
しかし妻は、かなり真顔で言った。
「水泳と体操は王道よね」
そのあとに、こうも言われた。
「何をそんな王道なことを、今さら大発見みたいに言っているの」
終わった。
完全に終わった。
自分の中では、雷が落ちたくらいの発見だった。
しかし妻からすると、完全に王道だった。
しかも「水泳と体操」という、しっかりセットになっていた。
こちらは体操という秘伝の巻物を見つけたつもりだった。
妻はすでに、水泳まで含めた入門パックを知っていた。
負けた。
完敗である。
自分は「これ、すごくない?」という顔をしていた。
妻は「うん、昔から人気よね」という顔をしていた。
温度差がすごい。
こちらは人類が火を手に入れたくらいの気持ちだった。
妻は「カセットコンロあるよ」くらいの顔だった。
恥ずかしかった。
かなり恥ずかしかった。
自分は、世界で初めて体操の価値に気づいた男として立っていた。
しかし現実は、世間の親たちがとっくに知っている王道を、かなり遅れて小走りで追いかけていただけだった。
ただ、恥ずかしかったけれど、考え自体は今でも間違っていないと思っている。
幼少期に体操をすることには、かなり意味がある。
体操は、身体の基本操作が多い。
走る。
跳ぶ。
転がる。
手をつく。
身体を支える。
バランスを取る。
逆さまになる。
怖いけど、少し挑戦する。
こういう動きは、どのスポーツにもつながる。
サッカーをするにしても、野球をするにしても、ダンスをするにしても、格闘技をするにしても、結局は自分の身体を自分で扱えないといけない。
まず、自分の身体が自分の言うことを聞いてくれないと困る。
これはスポーツだけの話ではない。
型枠大工をしていても、身体の使い方はかなり大事だと思う。
材料を運ぶ。
ベニヤを持つ。
ハンマーを振る。
釘を打つ。
狭いところでしゃがむ。
足場の悪いところで踏ん張る。
変な姿勢で、あと少しだけ手を伸ばす。
現場では、身体を使う場面ばかりである。
そしてこの仕事は、ただ力があればいいわけではない。
力任せにやれば、すぐ疲れる。
変な姿勢で無理をすれば、腰にくる。
余計な力が入れば、動きが遅くなる。
足元を見ていなければ、普通に危ない。
型枠大工は、地味に全身運動である。
いや、地味ではないかもしれない。
かなり全身運動である。
自分も幼少期に体操をやっていたら、何か変わっていたのだろうか。
今さらオリンピックに出られたとか、プロ選手になれたとか、そんな大きなことは言わない。
そこまで図々しくはない。
いや、少しは図々しいかもしれない。
ただ、身体の使い方くらいは、もう少しうまくなっていたのかなと思う。
ハンマーの使い方。
足の運び方。
転び方。
バランスの取り方。
変なところに力を入れずに動く感じ。
そういうものが小さい頃から身体に入っていたら、自分の現場での動きも少しだけ違っていたのかもしれない。
たとえば、狭いところを通る時。
材料を持ったまま身体をひねる時。
高いところではないけれど、足元の悪い場所で踏ん張る時。
あと少し手を伸ばせば届きそうな時に、身体全体でバランスを取る時。
そういう小さい場面で、体操をやっていた人は少し違うのかもしれない。
もちろん、型枠大工に必要なのは体操経験だけではない。
図面を見る力。
段取り。
材料の拾い方。
現場の流れを読む力。
人とのやり取り。
そういうものも全部いる。
でも、最後に現場で動くのは自分の身体である。
その身体が、思った通りに動いてくれるかどうかは大きい。
自分の腕が水平にすら上がっていない可能性があるなら、ハンマーを思った通りに振れている保証もない。
これは少し怖い。
自分では「今の一発、きれいに入った」と思っていても、身体側は別のことをしている可能性がある。
やめてほしい。
せめて相談してほしい。
「今の振り方ですが、少しズレています」
そう言ってくれれば直せる。
しかし身体は何も言わない。
そのくせ翌日、肩だけが文句を言ってくる。
順番が違う。
言うなら昨日のうちに言ってほしい。
そう考えると、子どもの頃にいろいろな動きを経験しておくのは大きいと思う。
転び方を知っている子は強い。
転ばない子が強いのではない。
転んでも、大きなケガにつながりにくい子が強い。
子どもはよく転ぶ。
走って転ぶ。
段差で転ぶ。
遊具で転ぶ。
何もないところでも転ぶ。
何もないところで転ぶ時だけは、いまだに仕組みが分からない。
床に何かあったのか。
空気につまずいたのか。
地球側から足を引っかけてきたのか。
親としては毎回ひやっとする。
でも、マット運動や前転、後転、手をつく動きに慣れていると、少しずつ身体の守り方を覚えていく。
もちろん、体操をしていれば絶対にケガをしないという話ではない。
そんな便利なものではない。
体操教室は魔法学校ではない。
先生も、ほうきで飛ばない。
でも、自分の身体をどう使うか、どう守るかを早くから経験できるのは大きい。
もう一つ大事なのは、挑戦する感覚である。
鉄棒にぶら下がる。
跳び箱に向かう。
平均台を歩く。
マットで回る。
大人から見れば小さなことでも、子どもにとっては大冒険である。
怖い。
でもやってみる。
できない。
もう一回やる。
少しできる。
褒められる。
またやる。
この流れは強い。
できなかったことが、少しずつできるようになる。
この感覚を小さい頃に持てるのは、かなり大事だと思う。
現場でも同じである。
最初から全部できる人はいない。
ベニヤの持ち方も、釘の打ち方も、材料の置き方も、道具の使い方も、最初はぎこちない。
でも、やってみる。
できない。
もう一回やる。
少しできる。
またやる。
そうやって身体で覚えていく。
そう考えると、体操と型枠大工は少し似ているのかもしれない。
どちらも、頭で分かっただけでは足りない。
身体が覚えないと使えない。
ただし、親がここで熱くなりすぎると危ない。
「よし、体操で身体能力の土台を作り、そこから競技選択に入る。我が子の将来設計、完璧」
などと考え始めたら危ない。
それはもう親ではなく、スポーツ育成ゲームのプレイヤーである。
子どもはキャラクターではない。
勝手に能力値を振ってはいけない。
「敏捷性に全振り」みたいなことを家庭でやり始めると、また妻にあの顔をされる。
あの顔は避けたい。
非常に避けたい。
幼少期に体操をやらせれば、必ず運動神経がよくなるわけではない。
必ずスポーツで勝てるわけでもない。
将来、強い選手になる保証もない。
ここを間違えると、体操ではなく親の欲望になる。
大事なのは、楽しく身体を動かすことだと思う。
できないことを責めない。
昨日より少しできたことを見る。
怖がっているなら、無理に押さない。
親が勝手に表彰台を見ない。
子どもがマットの上で前転している横で、親の頭の中だけ全国大会に行っていたら怖い。
まだ前転である。
落ち着け。
とはいえ、体操が有利なのは本当だと思う。
これはもう、妻に王道だと言われても思う。
王道には王道の強さがある。
みんなが良いと言っているものには、それなりの理由がある。
白米がうまいのと同じである。
「自分だけが米の可能性に気づいた」
と言っている人がいたら、かなり怖い。
でも、自分がやっていたのはわりとそれに近い。
「自分だけが体操の可能性に気づいた」
怖い。
妻が「水泳と体操は王道よね」と真顔で言った理由も分かる。
幼少期の体操は、誰かに勝つためだけの有利ではない。
自分の身体を楽しく使える。
転んでも起き上がれる。
怖くても少し挑戦できる。
できなかったことが、少しずつできるようになる。
そういう意味での有利である。
そして、これはスポーツをやる子だけの話でもないと思う。
将来、何の仕事をするか分からない。
机に向かう仕事かもしれない。
人と話す仕事かもしれない。
現場で身体を使う仕事かもしれない。
自分みたいに、型枠を組む仕事をするかもしれない。
何をするにしても、自分の身体を思ったように動かせることは、たぶん損にはならない。
子どもに何か習い事をさせたいけど、何がいいか分からないなら、体操はかなり良い選択肢だと思う。
これは秘密のアドバンテージではなかった。
世間では普通に知られていた。
自分はそれを、少し遅れて、かなり得意げに、妻に発表してしまった。
恥ずかしかった。
でも、恥ずかしい発見にも価値はある。
自分だけが知っていると思っていたことが、実は王道だった。
それは逆に言えば、ちゃんと良いものにたどり着いていたということでもある。
たぶん。
そういうことにしておきたい。
今後、もし子どもに体操をさせることがあったら、自分はあまり偉そうにしないようにしたい。
「これは身体操作の基礎形成において非常に有効であり」
などとは言わない。
妻に見られたら終わりである。
静かに見守る。
できたら褒める。
転んだら助ける。
楽しそうなら、それでよしとする。
そして心の中でだけ、少し思う。
やっぱり体操、強いな。
これはかなりのアドバンテージだな。
ただし、自分だけが知っているわけではない。
そこだけは、もう二度と間違えない。
つよし