ブログ

月別アーカイブ: 2026年9月

書いてみて、初めて自分が分かった話

最近、ブログを書くことが趣味になりつつある。

といっても、最初からブログを書きたかったわけではない。

きっかけは、社長が会社のホームページを作ったことだった。

ホームページはできた。

見た目もちゃんとしている。

ただ、一つ問題があった。

ブログを更新する人がいなかった。

作ったはいいものの、誰も書かない。

このままだと、立派なホームページの中に、ずっと同じ記事だけが置かれることになる。

それはそれで少し寂しい。

自分も文章を書くことに少し興味があったので、

「じゃあ、自分がやってみようかな」

くらいの気持ちで始めた。

本当に、そのくらいだった。

文章を書く人になろうと思ったわけでもない。

誰かに何かを教えようと思ったわけでもない。

現場であったことを書いたり、子どものことを書いたり、妻との会話を書いたり。

その日に思ったことを、忘れないうちに残しておく。

最初は、ただ会社のホームページを更新するために書いていた。

でも、続けているうちに、少し不思議なことに気づいた。

ブログを書いていると、自分のことが分かる。

正確に言えば、

書く前には分かっていなかった自分の気持ちが、書き終わった頃に分かることがある。

これは少し変な話である。

自分の気持ちなのだから、自分が一番分かっているはずなのに。

全然そんなことはなかった。

例えば、仕事で嫌なことがあった日。

その時はただ、

「今日は疲れたな」

と思っている。

腹が立ったのか。

悔しかったのか。

悲しかったのか。

自分でもよく分からない。

とにかく疲れた。

それで終わる。

でも夜になって、ブログを書こうとする。

今日こういうことがあった。

あの人がこう言った。

自分はこう返した。

その時はこう思った。

一個ずつ思い出しながら書いていると、

「あ、自分は腹が立っていたんじゃなくて、悔しかったんだな」

と気づくことがある。

逆もある。

大変だった現場の話を書いていたはずなのに、最後まで書くと、

「自分、結構この仕事好きなんだな」

と思ったりする。

現場にいる時には、そんなことは考えていない。

暑い。

重い。

早く帰りたい。

だいたいこの三つである。

それなのに、家に帰って文章にすると少し違って見える。

今日、起きたこと。嬉しかったこと。嫌だったこと。

誰かに助けてもらったこと。

その場では通り過ぎていたものが、文章にすると急に残る。

たぶん自分は、毎日の出来事をちゃんと感じる前に、次へ進んでいたんだと思う。

朝起きる。

仕事に行く。

仕事が終わる。

家に帰る。

子どもと過ごす。

飯を食べる。

風呂に入る。

寝る。

そして、また朝になる。

毎日は思っているより速い。

何かを感じても、整理する前に次のことが始まる。

いちいち、

「ここで本日の自分の感情を整理します」

なんて時間はない。

そんなことをしていたら、たぶん子どもに何かを投げられる。

だから、うれしかったことも、腹が立ったことも、そのまま流してきた。

ブログを書く時間だけが、その流れていったものを拾い直す時間になった。

あの時、なぜあんなに腹が立ったんだろう。

なぜ、あの一言だけ覚えているんだろう。

なぜ、今さら昔のことを思い出したんだろう。

文章にしようとすると、理由を考える。

すると、今まで自分でも気づいていなかったものが出てくる。

自分は、思っていたより人に認めてもらいたいらしい。

思っていたより家族のことを気にしている。

思っていたより仕事に誇りを持っている。

そして思っていたより、昔のことを覚えている。

昨日の晩飯は忘れるのに、十年前に誰かに言われた一言は覚えていたりする。

人間の記憶の保存基準は、よく分からない。

でも、最近になって一つ思い出したことがある。

「内省」というものだ。

自分の考えや行動を振り返って、自分自身を見つめること。

自分で自分に手紙を書いたりもする。

実はこれ、子どもの頃によくやらされていた。

当時は、何とも思っていなかった。

言われたからやる。

書けと言われたから書く。

たぶん、それくらいだった。

真面目に自分と向き合っていたかと言われれば、かなり怪しい。

早く終わらせたかったと思う。

それっぽいことを書いておけばいい。

そんな感じだった。

正直、何のためにやっているのかもよく分かっていなかった。

それが今になって、

自分から同じようなことをやっている。

誰にも言われていない。

提出する相手もいない。

先生もいない。

それなのに夜になると、その日あったことを振り返って、

「あの時、自分は何を思っていたんだろう」

と考えている。

子どもの頃、あれだけ適当にやっていた内省を、

何十年か経って、今度は自分からやっている。

もしかすると、あの頃やらされていたことが、どこかに残っていたのかもしれない。

当時は何も感じていなかった。

役に立っているとも思わなかった。

でも、ずっと後になってから意味が分かることもある。

そう考えると、昔の出来事の見え方まで少し変わってくる。

嫌だったこと。

失敗したこと。

恥ずかしかったこと。

「あの時は最悪だった」

で終わっていた出来事を、今の自分が文章にする。

すると、

あれがあったから今こう考えているのかもしれない。

あの人に言われたことが、まだ自分の中に残っているんだな。

そんなことに気づく。

過去そのものは変わらない。

起きたことも変わらない。

でも、今の自分から見た意味は変わる。

これは、ブログを書き始めるまであまり考えたことがなかった。

最初は、会社のホームページを更新するためだった。

誰もブログを書く人がいないし、少しでも役に立つなら

「じゃあ自分がやってみよう」

と始めただけだった。

それが気づけば、自分の昔のことを思い出し、自分の気持ちを考え、自分でも知らなかった自分を見つける時間になっていた。

書いてみないと分からなかった。

自分が何を大事にしているのか。

何に腹が立つのか。

何がうれしいのか。

なぜ仕事を続けているのか。

家族のことをどう思っているのか。

頭の中にあるだけの時は、全部ぼんやりしていた。

文章にして外に出して、初めて形が見えた。

たぶん、自分を知るというのは、

「自分はこういう人間です」

と一言で説明できるようになることではない。

昨日はこう思った。

今日は少し違う。

昔は嫌いだったことが、今は大事になっている。

そういう自分の変化を、一つずつ見つけていくことなのだと思う。

ブログを書き始める前より、自分のことが分かるようになった。

でも同時に、前より分からなくなった気もする。

書けば書くほど、

「自分、こんなこと考えていたのか」

というものが出てくる。

まだ知らない自分が、結構いる。

それも悪くない。

これからも仕事をして、家に帰って、子どもと過ごす。

腹が立つ日もある。

うれしい日もある。

何も起きない日もある。

そして夜になったら、また少し書く。

あの日の自分が何を感じていたのか。

何を大切にしていたのか。

あとになって読み返して、

「ああ、この時はこんなことを考えていたのか」

と思う日が来るのだろう。

子どもの頃は、意味も分からずやらされていた内省。

気づけば今は、自分からやっている。

何も悪いことはしてないのに。

つよし

型枠の拾い出しは大変な話

図面を見ると、一本の線がある。

ただの線に見える。

細い。

まっすぐ。

何も言わない。

ものすごく涼しい顔をしている。

「自分、ただの線ですけど」

みたいな顔をしている。

いや、分かっている。

見た目はたしかに線である。

でも、型枠大工から見ると、その一本の線はただの線ではない。

かなり面倒くさい線である。

できれば近づきたくない線である。

見た目は細いのに、中身が太い。

情報量が多い。

図面の一本の線には、いろんなものが隠れている。

高さはいくつなのか。

どこで止まるのか。

どこで折れるのか。

開口はあるのか。

段差はあるのか。

欠き込みはあるのか。

加工場でどう作るのか。

現場でどう組むのか。

コンクリートを打ったあと、どう解体するのか。

材料を無駄にしない形になっているのか。

一本の線にしては、情報量が多すぎる。

図面の線は、表では静かである。

でも裏側では、

「ここ、ちゃんと考えないと現場で詰まりますよ」

「このままだと加工場で嫌な顔されますよ」

「解体の時に無言になりますよ」

「材料、まあまあ無駄になりますよ」

という情報を抱えている。

言え。

先に言え。

黙っていないで、図面の方からちゃんと言ってほしい。

「ここ注意」

「ここ危険」

そのくらい書いていてほしい。

でも図面は書いてくれない。

図面は基本的に無口である。

線と数字だけが書いてある。

ここでいう拾い出しは、材料を何枚使うかを数える話ではない。

型枠の形を図面から読み取って、加工場で作れる形に起こす作業である。

職人が加工しやすいように考える。

現場で組みやすいように考える。

最後に解体屋さんがバラしやすいようにも考える。

さらに、材料を無駄にしないようにも考える。

やることが多い。

考えることが多すぎて、途中で図面に話しかけたくなる。

「お前、どうしたい?」

もちろん返事はない。

図面は黙っているので、こちらが考えるしかない。

一本の線を木材で形にする。

最近は、材料を無駄にしない使い方を考えるのも、仕事のうちだと思っている。

昔は、正直そこまで深く考えていなかったかもしれない。

形が合えばいい。

現場で組めればいい。

そう思っていた部分もある。

でも今は材料も高い。

ベニヤ一枚でも、桟木一本でも、無駄にすればちゃんとコストで返ってくる

だから加工帳を書く時も、材料の取り方を考える。

この形で取れば早い。

このまま書けば楽だ。

多少材料は無駄になるけど、加工は簡単になる。

そういう悪い考えが、頭の中を一瞬よぎることがある。

本当に一瞬である。

たぶん。

そして、その悪い自分に少し負けそうになった時、親父(社長)の顔が浮かぶ。

材料を無駄にする形で加工帳を書こうとした瞬間、なぜか親父の顔が出てくる。

別に後ろに立っているわけではない。

カメラで見られているわけでもない。

図面の中に小さく印刷されているわけでもない。

でも、頭の中にはいる。

かなり鮮明にいる。

しかも無言である。

この無言が一番怖い。

ただ見る。

静かに見る。

そして、その顔が言っている。

「それ、本当にその取り方でいいのか」

怖い。

かなり怖い。

図面より怖い。

図面は黙っているだけだが、親父の顔は黙っているのにしゃべっている。

高等技術である。

その瞬間、思いとどまる。

もう一回図面を見る。

もう一回取り方を考える。

少し面倒でも、材料が無駄になりにくい形を探す。

加工しやすさだけで逃げない。

現場のことも、材料のことも、コストのことも考える。

材料は勝手に湧いてこない。

ベニヤも桟木も、畑から生えてくるわけではない。

朝になったら現場の隅に自然発生しているわけでもない。

それを忘れて、楽な加工帳を書こうとすると、頭の中の親父がまた静かにこちらを見る。

やめてほしい。

図面から型枠を拾っている時、身体はあまり動いていない。

椅子に座っている。

パソコンを見ている。

ペンを持っている。

外から見ると、あまり働いていないように見えるかもしれない。

でも頭の中では、かなり働いている。

もう加工してる

もう現場で型枠を組んでいる

もうコンクリートを打っている。

もう解体している。

まだ図面の前にいるのに、頭の中では工程が進みすぎている。

気が早いにもほどがある。

でも、そこまで考えないと見えないことがある。

図面では簡単そうな形でも、現場では全然簡単ではないことがある。

一枚で作ればきれいに見える。

でも実際には重すぎる。

大きすぎる。

持ちにくい。

入らない

逆に細かく分ければ扱いやすいかもしれない。

でも今度は加工の手間が増える。

組む時に合わせる場所も増える。

隙間も気になる。

解体の時には楽かもしれないが、材料の取り方が悪くなることもある。

どれか一つだけを見れば簡単である。

作りやすさだけ。

組みやすさだけ。

解体しやすさだけ。

材料の無駄だけ。

一個だけなら、まだ考えやすい。

でも実際は、全部が同時に来る。

本当に難しい。

拾い出しに絶対の正解はない。

同じ図面を見ても、人によって形の起こし方が変わる。

ここで分ける人もいれば、一枚で作る人もいる。

ここは現場合わせにする人もいる。

どれがいいかは、現場によって変わる。

職人によっても変わる。

解体のことまで考えると、また変わる。

つまり、拾い出しはただの作業ではない。

判断の連続である。

しかも、あとから答え合わせが来るタイプの判断である。

型枠大工は、現場で身体を使う仕事だと思われがちである。

もちろん、それは間違いない。

暑い中で材料を持つ。

型枠を組む。

締める。

通りを見る。

身体はかなり使う。

でも、その前に頭も使っている。

図面の一本の線を見て、その裏にある情報を読み取る。

その線が、現場でどう形になるのかを考える。

その形が、誰かを困らせないかを考える。

それが拾い出しだと思う。

一本の線は簡単そうに見える。

でも頭の中では、ずっと現場が動いている。

図面一枚で、何回も現場を往復している。

そりゃ疲れる。

ただ、うまく拾えた時は気持ちいい。

でも、何も起きない。

それが一番いい。

良い拾い出しは、目立たない。

問題が起きないからである。

拾い出しをやるようになってから、現場で型枠を見る目も少し変わった。

きれいに納まっている型枠を見ると、組んだ人だけではなく、その前の仕事まで想像する。

ここは考えたんだろうな。

ここは加工しやすくしたんだろうな。

ここは現場で楽になるようにしたんだろうな。

逆に、ものすごく組みにくい型枠を見ると、

「拾った人、現場来てほしいな」

と思うこともある。

怒りたいわけではない。

一回だけ一緒に組みたい。

たぶん次から変わる。

型枠の拾い出しは地味な仕事だ。

現場で型枠が立った時ほど分かりやすくはない。

でも、その前に誰かが線の裏側を読んでいる。

一本の線の中にある複雑な情報を読み取って、仕事できる形に変えている。

加工を考える。

現場を考える。

解体を考える。

材料を考える。

そして最後に、親父の顔色を考える。

図面には載っていない。

でも、材料を無駄にしようとした時だけは、線や数字よりはっきり浮かんでくる。

つよし

北谷MS、慰労会!

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型枠のボスが慰労会を開いてくれたので、みんなで参加してきました。

監督さん、解体屋さん、設備屋さん。

約一年間、同じ現場で顔を合わせてきた人たちが久しぶりに勢ぞろいした。

現場では、それぞれ自分の仕事に追われているので、ゆっくり話すことは意外と少ない。

それが現場を離れて酒が入ると、みんな普通に笑っている。

一年も一緒にいたのに、

「この人、こんなにしゃべる人だったんだ」

と思うこともある。

大変な現場だったはずなのに、終わってしまえば不思議と笑い話になる。

結局、明け方まで楽しく飲みました。

一年間、一緒に戦ってきた皆さん、本当にお疲れさまでした。

またどこかの現場で、一緒に仕事ができる日を楽しみにしています。

つよし

ハーモニーランドで、カッコつけるのをやめた話

男なら分かってくれると思うが、男には突然、意味もなくカッコつけてしまう瞬間がある。

沖縄から福岡空港へ向かう飛行機の中で、CAさんが飲み物を配っていた。

「お飲み物はいかがですか?」

自分はコーラが好きなので、普通にコーラを頼もうと思った。

コーラください。

それだけでいい。

なのに、CAさんが目の前まで来た瞬間、なぜか言った。

「あ、いらないです」

自分でも意味が分からなかった。

飲みたい。

普通に飲みたい。

前の席の人が飲んでいるコーラを、さっきから少し見ていた。

それなのに断った。

CAさんが去ったあと、隣にいた妻が言った。

「何をかっこつけてるの? コーラ好きじゃん」

一瞬でバレた。

自分はすぐに答えた。

「いや、かっこつけてないよ」

本当は、かっこつけていた。

何なら、かなり純度の高いかっこつけだった。

飛行機でコーラを頼むことの何が恥ずかしいのか、自分でも分からない。

大人の男ならコーヒーとか水とかを頼むべきだと、一瞬どこかで思ったのかもしれない。

でもコーヒーすら頼んでいない。

ただ喉が渇いた男が、コーラを我慢しただけである。

何も得していない。

妻は笑っていた。

でも「かっこつけてない」と言ってしまった以上、もう後には引けない。

つまり自分は、

「CAさんの前だからクールに振る舞った男」

ではなく、

「もともとこういうクールな男」

という設定で生きていかなければならなくなった。

コーラ一杯を断っただけで、人格設定が一つ増えた。

そして翌日、大分県にあるハーモニーランドへ行ってきた。

サンリオのテーマパークである。

子どもが好きなキャラクターに実際に会える。

親として、これ以上分かりやすく正しい休日はない。

問題は一つだけだった。

自分はハーモニーランドについて、ほとんど何も知らなかった。

サンリオの何かがある。

大分にある。

キティちゃんがいる。

以上。

情報量としては、道端の看板とほぼ同じである。

それでも出発前の自分には、妙な自信があった。

「まあ、普通の遊園地だろ」

遊園地というものは、だいたい分かる。

乗り物がある。

キャラクターがいる。

これまでの人生経験から、そこまでは読めている。

だから完全に油断していた。

到着するまでは。

駐車場に車を止め、入口へ向かって歩いていると、すでに周囲の空気がおかしかった。

子どもたちが仕上がっている。

キティちゃんのカチューシャ。

シナモんロールのバッグ。

全身ピンク。

中には、全身をキティちゃんグッズで完全武装している大人までいる。

対して自分は、普通のTシャツだった。

まずここで気づいた。

服装を間違えたかもしれない。

入園すると、さらに世界が変わった。

とにかく、かわいい。

入り口からもう、かわいい。

建物もかわいい。

乗り物もかわいい。

音楽もかわいい。

歩いている人まで、なんとなくかわいく見えてくる。

その中を、自分も歩く。

型枠大工の男が。

完全に異物である。

自分だけが、かわいくない。

圧倒的に。

家族写真を撮ったら、ハーモニーランドの世界観に一人だけ作業員が紛れ込んだみたいな感じだと思う。

普段はベニヤと桟木に囲まれている人間が、突然キティちゃんの世界に放り込まれている。

色が違いすぎる。

現場なら、

「そこセパ入ってないよ」

とか言っている。

今日は、

「シナモンいた!」

である。

落差がすごい。

しかも、自分にはもう一つ問題があった。

妻である。

正確には、妻の視線である。

昨日、自分は飛行機の中で言ってしまった。

「かっこつけてないよ」

つまり今日ここで、

「うわ、キティちゃんだ!」

などと全力ではしゃいでしまったら、昨日のコーラの件まで全部さかのぼって有罪になる。

妻から、

「やっぱり昨日かっこつけてたじゃん」

と言われる。

それだけは避けたい。

なぜ避けたいのかは分からない。

別に裁判でもない。

妻もたぶん、もう忘れている。

でも自分だけは覚えている。

だから園内に入って最初のうちは、妙にクールだった。

娘が、

「キティちゃん!」

と指を差す。

自分も見る。

普通にテンションは上がっている。

でも妻がいる。

「おー」

このくらいにしておく。

娘が、

「シナモン!」

と言う。

かわいい。

普通にかわいい。

でも妻がいる。

「へえ」

何の「へえ」なのか。

完全に楽しんでいるのに、楽しんでいない人の演技をしていた。

ハーモニーランドに来てまで、昨日断ったコーラの辻褄を合わせている。

園内を歩いていると、いろいろなキャラクターがいる。

娘はそのたびに反応する。

自分も最初は、

「おー、かわいいね」

と余裕を持っていた。

だが問題が起きた。

知らないキャラクターが増えてきた。

娘が何かを指差した。

「あれ誰?」

知らん。

こっちはキティちゃん一本でここまで来ている。

キティちゃんという大黒柱だけでサンリオを理解したつもりになっている。

その後も娘は容赦なく指を差してくる。

「あれは?」

「キティちゃんの友達だよ」

「あれは?」

「キティちゃんの親戚」

「あれは?」

「たぶん、かなり仲いい知り合い」

もう名前を答えることを諦めて、人間関係で答え始めた。

最終的には、園内にいる知らないキャラクター全員をキティちゃんの知り合いということにした。

子どもは当然テンションが高い。

「パパ、シナモン!」

と言って走っていく。

自分も後ろから、

「どこ?」

と言いながら追いかける。

ここでも最初は、まだ妻を意識していた。

走っているけど、はしゃいでいるわけではない。

父親として追いかけているだけ。

そういう顔をしていた。

誰も聞いていないのに、自分の中でずっと弁明している。

ところが少しずつ、その設定が崩れていく。

数時間前まで、

「シナモンって犬なの?」

くらいの知識だった男が、

「あ、あっちにもシナモンいるよ」

と誰より先に見つけ始める。

環境への適応が早すぎる。

現場で新しい図面を渡された時より理解が早い。

最初は完全に、

「子どもが喜ぶなら」

という父親の立場だった。

自分は付き添い。

主役は子ども。

今日は家族サービス。

そして何より、自分はクールな男。

そういう設定だった。

ところが一時間くらいすると、おかしくなってくる。

キャラクターの名前を覚え始める。

「あれ誰?」

と聞いていた自分が、

「あれポムポムプリンじゃない?」

と言い始める。

成長が早い。

型枠の専門用語を覚えた時より早い。

さらに怖いのが、写真である。

最初は子どもだけ撮る。

「そこ立って」

「こっち向いて」

「はい、笑って」

普通の父親である。

そのうち、

「せっかくだから一緒に撮るか」

となる。

ここで一瞬、妻の顔を見る。

危ない。

昨日の自分がいる。

クールな男は、キティちゃんの横でピースなどしない。

そう思った。

数秒後。

ピースしていた。

しかも、ちゃんと笑っていた。

何の抵抗もない。

朝の自分に見せたい。

お前、数時間後にはキティちゃんの横でピースしてるぞ。

たぶん信じない。

「いや、自分そういうのいいから」

とか言うと思う。

黙れ。

お前は昨日コーラすら頼めなかった。

そして昼を過ぎた頃には、完全に忘れていた。

妻の視線も。

昨日のコーラも。

クールな男という設定も。

全部忘れた。

キャラクターを見つければ、

「あ、いた!」

と普通に言う。

娘より先に手を振る。

乗り物にも乗る。

普通に楽しむ。

写真も撮る。

ショップに入れば、

「これかわいいな」

と自分から言う。

もう誰も止められない。

妻が横にいることすら、かっこつける材料ではなくなっていた。

人間、楽しさが一定量を超えると設定を維持できないらしい。

朝、

「子どもが喜べばそれでいい」

みたいな顔をしていた男が、

帰る頃には普通に一番楽しんでいた。

ハーモニーランドを出る時、子どもに聞いた。

「楽しかった?」

「楽しかった!」

よかった。

そう思いながら駐車場へ向かった。

そこでふと、自分のスマホの写真を見た。

キティちゃん。

ポムポムプリン。

子ども。

キティちゃん。

自分。

何かのキャラクター。

自分。

自分。

思ったより自分が写っている。

付き添いの写真量ではない。

しかも後半になるほど、自分の笑顔が仕上がっている。

最後の方なんて、娘より自分の方が楽しそうに写っていた。

つよし